サッカー本田圭佑が「FiNANCiE」投資家兼アドバイザーに就任

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サッカー日本代表にも選出された本田圭佑選手が株式会社フィナンシェが提供する新SNS「FiNANCiE」の投資家兼アドバイザーに就任しました。本田圭佑選手は多岐に渡る活躍でも知られていますが、現在の本田圭佑選手はいくつの顔を持っているのでしょうか?今回就任した「FiNANCiE」とはどういったサービスなのでしょうか?調べてみましたので参考にしてください。

本田圭佑選手のプロフィール

出典 Twitter @kskgroup2017
  • 名前:本田圭佑
  • 生年月日:1986年6月13日
  • 出身地:大阪府
  • 在籍チーム:メルボルン・ビクトリーFC
  • ポジション:MF/FW
  • 利き足:左足
  • 背番号:4

本田圭佑選手の略歴

プロ入り前

大阪府摂津市出身。両親は本田が小学2年生の春に離婚、自身は父のほうについたが父は仕事で忙しかったこともあり、祖父母に育てられていた。幼少時は鳥飼さつき園に通っていた。摂津市立鳥飼北小学校2年時から地元の摂津FCに入団しサッカーを始めた。摂津市立第四中学校に入学。あだ名はゴリ。その後、ガンバ大阪ジュニアユースに所属し家長昭博、安田理大、東口順昭らとともにプレーしたが、当時はスタミナやスピードに難があり、ユースチームへの昇格内定が出なかったため、石川県の星稜高校へ進学した。1年時に高円宮杯全日本ユース選手権で準優勝し、3年時にはキャプテンとして第83回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、石川県勢として初のベスト4に貢献した。高校では、豊田陽平や橋本晃司とともにプレーした。2004年には特別指定選手として名古屋グランパスの練習に参加し、7月24日に行われたナビスコカップのジュビロ磐田戦で公式戦初出場を果たした。背番号は「39番」。同時期に横浜F・マリノスの練習にも参加したが獲得は見送られた。

出典 wikipedia
名古屋グランパス時代

高校卒業に際して複数のJリーグクラブからオファーを受け、名古屋グランパスエイトとプロ契約を結んだ。背番号は「24番」。本人の希望により加入時の契約に「オファーがあれば海外クラブへの移籍を認める」という条項が盛り込まれていた。2005年3月5日、ジェフユナイテッド市原・千葉戦でクラブ史上4人目となる高卒ルーキーの開幕スタメンでプロデビューしアシストを決めた。4月28日、第8節東京ヴェルディ1969戦でプロ初ゴールを決めた。翌年のプロ2年目からレギュラーに定着した。

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VVVフェンロー時代

2008年1月16日、エールディヴィジ(オランダ1部リーグ)のVVVフェンローへ移籍した。2年半契約で背番号は「29番」。1月20日の入団会見ではオランダ語で挨拶を行い、その日のうちに昨シーズンまで名古屋グランパスの監督を務めていたセフ・フェルホーセン率いるPSV戦に移籍後初出場した。3月15日、第29節フェイエノールト戦で移籍後初得点となる直接FKを決めた。レギュラーとしてプレーしたが、クラブは5月にエールステ・ディヴィジ(オランダ2部リーグ)への降格が決定した。
2008-09シーズンは背番号を「10番」に変更し、攻撃の軸として開幕から首位を独走するチームの原動力となり、シーズン途中からはフリーキッカーとキャプテンを任された。リーグ戦36試合に出場し16ゴール14アシストを挙げ、チームの2部リーグ優勝と1部復帰に貢献し、2部リーグにおける年間最優秀選手賞(MVP)を受賞した。
2009-10シーズンは前半戦18試合すべてにスタメン出場し、6ゴール7アシストを挙げた。またオランダのテレビ番組で前半戦のベストゴールTOP10が発表され、本田がユトレヒト戦で決めた豪快なミドルシュートが選出された。

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CSKAモスクワ時代

2010年1月1日、移籍金900万ユーロ(約12億円)でロシア・プレミアリーグのCSKAモスクワへ移籍。4年契約で背番号は「7番」。ロシア・プレミアリーグでプレーする初めての日本人選手になった。
2010年2月24日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1stレグのセビージャ戦がCSKAでの初出場となり、同時にチャンピオンズリーグ初出場となった。この大会のみ背番号は「18番」をつけた。3月16日、2ndレグのセビージャ戦で前半39分にCL初アシストを、後半10分にはゴール約30mの位置から決勝点となる直接FKを決め、CL初得点。2戦合計3-2でCSKAが勝利し、日本人初、クラブ史上初、ロシアリーグ所属チーム史上初となるCLベスト8への原動力となった。この試合では「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれ、さらに1stレグ2ndレグともに欧州の複数のスポーツ紙にてCL週間ベストイレブンに選ばれた。 2010-11シーズンの開幕戦アムカル戦で、後半アディショナルタイムに移籍後初得点となる決勝点を決めた。前半戦終了時点でのロシア紙スポーツ・エクスプレスの採点では平均5.96で全選手中10位(1位は6.25)と、VVV時代とは違う不慣れなボランチでの出場が多いながらも高く評価され、シーズン4得点と結果を残し、CSKAモスクワのCL本戦出場権獲得に貢献した。2011年5月22日、ロシア・カップ決勝のアラニア戦で決勝点をアシストし、CSKAモスクワの2シーズンぶりの優勝に貢献した。
2011-12シーズンはボランチではなく、得意とする右サイドハーフで起用されたことで得点に絡む機会が増え、18試合で前シーズンを上回る7得点を挙げるなど好調を保っていたが、8月28日のスパルタク・モスクワ戦で右膝半月板を損傷し、後日手術を受け、全治には最大3か月と発表された。11月18日、ルビン・カザン戦で2か月半ぶりに復帰を果たすも、右膝の故障が再発しまたも戦線離脱となり、CLグループリーグを全試合欠場した。2012年1月、イタリア・セリエAの強豪ラツィオへの移籍が取り沙汰されたが、高額な移籍金がネックとなり移籍は破談となった。 2012年2月21日、CL決勝トーナメント1回戦1stレグのレアル・マドリード戦で3か月ぶりに公式戦復帰を果たした。しかし、2ndレグは左太ももの負傷で欠場し、チームも敗退した。4月21日のディナモ・モスクワ戦で1か月半ぶりに復帰を果たした。5月13日、最終節ルビン・カザン戦で9カ月ぶりの得点を決めるもチームは敗れ、CL出場権を逃した。
2012-13シーズンはトップ下で起用され、前半戦18試合で7得点を挙げるなど好調な活躍を見せていたが、2013年2月に左足首の負傷が判明しチームを離脱。以後、長期に渡り治療を余儀なくされ、3月のW杯アジア最終予選ヨルダン戦も欠場したが、4月21日のスパルタク・モスクワ戦で4か月半ぶりに復帰を果たした。2013年5月18日、CSKAモスクワは6シーズンぶりのリーグ優勝を達成し、自身にとって初の欧州1部リーグでの優勝となった。6月1日、ロシア・カップ決勝のアンジ戦に先発出場し、2シーズンぶりの優勝に貢献した。ロシア紙スポーツ・エクスプレスにロシア・プレミアリーグ2012-13シーズンのベストイレブンにトップ下で選出された。7月13日、ロシア・スーパーカップのゼニト戦で2得点を決める活躍で、CSKAモスクワの4シーズンぶりの優勝に貢献し、国内3冠を達成した。
2013-14シーズンの前半戦もトップ下で起用された。また、CLグループリーグではバイエルン・ミュンヘン戦とプルゼニ戦で1ゴールを決めるなど2G2Aの活躍を見せたが、チームはグループリーグで敗退した。2013年12月、CSKAモスクワを退団。

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ACミラン時代

2013年12月11日、イタリアセリエA・ACミランへの移籍が発表された。3年半契約で背番号は自ら希望した「10番」に決まった。2014年1月12日、第19節サッスオーロ戦で途中出場しセリエAデビューを果たした。1月15日、初の先発出場となったコッパ・イタリア5回戦スペツィア戦で移籍後初得点を決めた。4月7日、第32節ジェノア戦でリーグ戦初得点を決めた。その後、左足首捻挫でチームを離脱。2週間後に復帰するも、インテル所属の長友佑都との日本人対決が注目された5月5日のミラノダービーでは出場機会はなかった。
2014-15シーズンは開幕戦ラツィオ戦で右ウイングとして先発出場し、先制点を決めた。第2節パルマ戦では、ジャコモ・ボナヴェントゥーラの先制点をアシスト、イニャツィオ・アバーテのクロスを頭で決め、1ゴール1アシストを記録した。第7節ヴェローナ戦で移籍後初の1試合2得点を決めた。11月23日のミラノダービーにインテル所属の長友佑都とともに出場し、ミラノダービーで初の日本人対決が実現した。
2015-16シーズンはシニシャ・ミハイロヴィチが監督に就任し、アレッシオ・チェルチが右ウイングで起用されたため、前半戦は出場機会が少なかった。2試合連続で出場機会がなく、チームが2連敗を喫した10月4日のナポリ戦後、チーム批判とも受け取られかねない発言をした。前半戦は12試合に出場(先発出場は5試合)し、得点はなかったがアシストを記録している。後半戦は右サイドハーフでレギュラーに定着。2016年1月30日のミラノダービーで決勝点をアシスト、伊3紙から最高点が与えられた。2月14日、第25節ジェノア戦で今季初得点となるミドルシュートを決めた。このゴールはミランサポーターが選ぶシーズンベストゴールに選出された。
2016-17シーズンはヴィンチェンツォ・モンテッラが監督に就任し、スソ、エムベイェ・ニアン、ジェラール・デウロフェウといった若くてスピードがあるウイングが起用されたため、出場機会が少なかった。2017年1月、イングランド・プレミアリーグのハル・シティからオファーがあったが断り、残留を決めた。2017年5月21日、ホーム最終戦のボローニャ戦で今季初得点となる直接FKを決めた。ミランの来季のEL出場を決定付ける得点でもあり、このFKはミランサポーターが選ぶ5月のベストゴールに選出された。試合後、自身の公式Twitterを開設すると同時に今季限りでの退団を表明した。ボローニャ戦後、ミラン情報サイト『ピアネタ・ミラン』から「良いテクニックを持っており、戦術的には貴重な選手であり、頭も良い。それに非常にプロフェッショナルな選手だ」と評された一方で「ティフォージ(サポーター)から愛されなかった」と締めくくられている。5月28日、ミランでのラストマッチとなった最終節のカリアリ戦では、移籍後初のキャプテンマークを巻き、フル出場を果たした。

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CFパチューカ時代

2017年7月14日、リーガMXのCFパチューカへの移籍が決定した。1年契約で背番号は「02番」。ユニフォームネームは「KSK」となっている。この「KSK」とは自身の展開するブランドの名前であり、圭佑という名前をもじったものである。右ふくらはぎ肉離れで出遅れたが、8月22日の前期第6節ベラクルス戦に移籍後初出場し初得点を決めた。10月25日、コパMX決勝トーナメント1回戦のサカテペク戦で移籍後初の1試合2得点を決めた。11月8日、コパMX準々決勝のティフアナ戦でハーフウェーライン手前から4人抜きのゴールを決め称賛された。12月9日、FIFAクラブワールドカップの準々決勝ウィダード・カサブランカ戦で大会初出場を果たして勝利に貢献した。2018年1月27日、後期第4節ティグレス戦でゴールを決め、第5節モレリア戦で2試合連続ゴールとなる直接FKを決めた。4月6日、第14節プエブラ戦でリーグ戦初の1試合2得点を決めた。1トップ、トップ下、右インサイドハーフ、右ウイングと複数のポジションでプレーし、リーグ戦29試合に出場し10ゴール7アシストを挙げ、チームの攻撃を牽引した。 メルボルン・ビクトリー時代 2018年8月6日、Aリーグのメルボルン・ビクトリーFCへの移籍が発表された。背番号は「4番」。年俸制限のないマーキープレーヤーとしての契約となる。10月20日、開幕戦のメルボルン・シティとのダービーマッチにキャプテンマークを巻き移籍後初出場し、初得点を決めた。開幕から7試合で4G3Aを挙げ、10月と11月のAリーグ月間最優秀選手に選ばれた。12月に右太もも裏を負傷し、チームを離脱。2019年2月10日、第18節パースグローリー戦で2か月ぶりに復帰を果たした。3月5日、AFCアジアチャンピオンズリーグのグループリーグ第1節大邱FC戦で大会初出場を果たした。クラブチームの選手として、11年3カ月ぶりの凱旋試合になった第2節サンフレッチェ広島戦でACL初得点を決めた。

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本田圭佑選手の代表経歴

石川県選抜において、左SBの位置からステップなしでサイドチェンジを送る姿が大熊清U-20日本代表監督の目にとまり、2005年のFIFAワールドユース選手権・オランダ大会にU-20日本代表として招集され、負傷明けの梶山陽平に代わって、グループリーグ初戦のオランダ戦にボランチで先発出場した。しかし試合は前半にオランダが圧倒、後半は日本もペースをつかむ時間帯を得たが本田は途中交代となり、チームも敗れた。この後、チームはベスト16に進出したものの、梶山の復調もあって出場機会はなかった。2006年11月、フル代表に初招集されたが出場はなかった。2007年北京オリンピックアジア予選では中盤の主力として五輪出場権獲得に貢献した。


2008年6月22日、2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のバーレーン戦でフル代表デビュー。8月に開催された北京オリンピックでは、中盤の主力としてグループリーグ全3試合に出場した。谷口博之や梶山陽平らとともに攻撃を牽引したが、グループリーグ3戦全敗で敗退した。2009年5月27日、キリンカップのチリ戦で山田直輝からパスを受け、フル代表初得点を挙げた。

2010年6月に開催された2010 FIFAワールドカップでは4試合にフル出場。大会直前にそれまで経験のないセンターフォワードのポジション(0トップ)に抜擢、グループリーグ初戦のカメルーン戦で決勝点を挙げ、FIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。第3戦のデンマーク戦では直接FKで先制点を挙げ、岡崎慎司のゴールもアシストし、日本代表の決勝トーナメント進出に貢献、この試合でも「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦では強烈なミドルシュートを放つなど強い印象を残したが、PK戦の末に日本代表は敗れた(記録上は引き分け)。しかし敗戦チームからは異例の今大会3度目となる「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。


2011年1月に開催されたアジアカップ2011では、グループリーグ第3戦のサウジアラビア戦を除く5試合にフル出場。グループリーグ第2戦のシリア戦では、PKで日本代表の国際Aマッチ通算1000点目となる決勝点を挙げた。準決勝の韓国戦でも全2得点に繋がるプレーを見せ、この2試合で「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。準々決勝のカタール戦での2得点につながる縦パスを含め、出場した試合で日本代表が挙げた全9得点中6得点に絡む活躍で日本代表の2大会ぶりのアジア制覇に貢献し、同大会の最優秀選手(MVP)に選出された。2月7日、全国のサッカー担当記者の投票による2010年度のフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)に有効投票202票のうち、75票を集めて初選出された。50年の歴史がある賞だが、海外のクラブでプレーする選手が受賞するのは本田が初めてであった。3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、先制点のきっかけとなったFKを獲得し、岡崎慎司の決勝点をアシストする活躍を見せた。


2012年6月8日、2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選のヨルダン戦で自身フル代表初のハットトリックを達成。本田のハットトリックは高校時代以来でプロ入り以降は初めてであり、またW杯アジア最終予選の日本人選手のハットトリックは、1997年W杯アジア最終予選の三浦知良以来となる、史上2人目の快挙となった。2013年6月4日、オーストラリア戦で後半アディショナルタイムに自らが獲得したPKを決め、ブラジルワールドカップ出場を決めた。最終予選で5得点を決めた本田は、1大会のW杯アジア最終予選における通算得点で三浦知良の4得点を抜き、歴代最多得点を更新した。


2013年6月に開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013では、グループリーグ第2戦のイタリア戦でPKで先制点を決めるが、チームは逆転負け。グループリーグ3戦全敗で敗退した。しかし、本田自身はFIFA選定のグループリーグベストイレブンにアンドレス・イニエスタやマリオ・バロテッリらとともに日本人で唯一選出された。同年、12試合で8ゴールを挙げる活躍でチーム得点王となった。


2014年6月に開催された2014 FIFAワールドカップでは、全試合トップ下でフル出場。グループリーグ初戦のコートジボワール戦では先制点を決め、日本人のワールドカップ最多得点を記録したがチームは逆転負け。第2戦のギリシャ戦ではチームは引き分けに終わったものの、FIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。第3戦のコロンビア戦では、岡崎慎司のゴールをアシストしたが、チームは敗れグループリーグ最下位での敗退となった。
2015年1月に開催されたアジアカップ2015ではグループリーグで3得点(その内2点がPK)を決めるも、PK戦となった準々決勝UAE戦でチームは敗れた。同大会グループリーグでのベストイレブンに選出された。


2015年11月17日、2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選のカンボジア戦で得点を決め、日本サッカー史上初のワールドカップ地区予選5試合連続ゴールを記録。2016年3月29日、シリア戦で得点を決め、ワールドカップ地区予選6試合連続ゴールを記録。9月1日、2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のUAE戦で先制点を決め、7試合連続ゴールを記録。9月6日のタイ戦では得点を決められず、連続ゴールは7試合でストップした。10月11日、オーストラリア戦では約4年ぶりとなる1トップで出場し、原口元気の得点をアシストした。


2017年9月6日のサウジアラビア戦に先発したが低調なプレーに終わり、前半終了後交代となった。代表監督のヴァヒド・ハリルホジッチはサウジアラビア戦でのプレーを「リズムの面でトップレベルにない。今後も努力して取り戻してもらいたい」と評した。自身も「全然ダメ」と認める低調なプレーに、ファンやメディアの間からは本田はもう日本代表には必要ないという“本田不要論”が噴出した。本田はこれを受けて、Twitterにて「サッカーファンの皆さん、メディアの皆さん、『もう代表に必要ない』とか他にも厳しい声をありがとうございます」「良い感じで舞台は整ってると思ってます」と批判に対して感謝する声を述べた。2017年9月28日、代表とクラブでの不振を理由にけがや国内組で編成された試合を除いて、2009年5月以来8年ぶりに代表メンバーから外れた。2018年3月15日、クラブでの活躍が評価されて半年ぶりに代表復帰を果たした。


2018年6月に開催された2018 FIFAワールドカップではスーパーサブとして3試合に途中出場。グループリーグ初戦のコロンビア戦で、コーナーキックから大迫勇也の決勝ゴールをアシストし、アジア人初となるW杯3大会連続のアシストを達成。第2戦のセネガル戦では同点弾を決め、日本人初となるW杯3大会連続ゴールを達成した。W杯3大会連続となる得点とアシストの両方を記録した史上6人目の選手となり、32歳11日でのゴールは、1998 FIFAワールドカップで中山雅史が30歳277日で決めた得点を上回り、日本人のW杯最年長ゴールとなった。この活躍は本田不要論を唱えていた者たちにも予想外であり、「本田さん、ごめんね」といった反応がネット上で相次いだ。また、イギリスメディア『BBC』にグループステージのベストイレブンに選出された。決勝トーナメント1回戦のベルギー戦でチームは逆転負け。試合後、ワールドカップ挑戦は今回が最後であると明言し代表引退を示唆した。A代表から引退する事は示唆しているが、2020年東京オリンピックにオーバーエイジとして出場する事を目指すという事をAbemaTVで明かしている。

出典 wikipedia

指導者としての本田圭佑

2012年5月、自身がプロデュースするサッカースクール「SOLTILO FAMILIA」を地元の大阪に開校。同年11月には神戸にも開校している。SOLTILOはスペイン語の「SOL=太陽」と「ESTILO=スタイル」からの造語で、FAMILIAは家族を意味する。


2015年8月19日、『HONDA ESTILO 株式会社』がSOLTILO FCのユース、ジュニアユースを新設することを発表した。


2016年6月22日、国連財閥の教育事業である「グローバル・アドボケイト・フォー・ユース」に任命された。また、アメリカのマサチューセッツ工科大学メディアラボの特別研究員に日本人として初めて就任した。

出典 wikipedia

カンボジア代表監督に就任

2018年8月12日、カンボジアで記者会見を開き、現役選手ながら実質的なカンボジア代表監督兼GMに就任することが発表された。 ただし、本田自身は監督の資格を有していないために、実質的には本田が指揮をとるものの、登録上はフェリックス・アウグスティン・ゴンザレス・ダルマスが監督に就任した。

出典 wikipedia

本田圭佑の様々な顔

超一流のサッカー選手でありながら、サッカースクールのプロデューサーでもあり、事実上カンボジアの代表監督でもあります。サッカーに対する熱意の強い本田圭佑さんですが、ビジネスマンとしての才能も発揮しています。本田圭佑さんがプロデュースしているサッカースクールは、現在では日本最大規模のサッカースクールへと成長しています。下部リーグのクラブ経営者としての顔も持っています。

本田圭佑が「投資家兼アドバイザー」に就任

本田圭佑さんが株式会社フィナンシェに出資し、「ドリーム・シェアリング・サービス FiNANCiE」へ本腰を入れているようです。本田圭佑さんの応援メッセージがこちら。

「この度、株式会社フィナンシェに出資させて頂くことになりました。FiNANCiEは次世代のSNSになる可能性を期待しています。
僕が注目しているFiNANCiEのサービスのポイントは2つあって、1つは初期から応援している人にメリットがあるというインセンティブ設計が優れていること。もう1つは誰もが夢を追う為に必要な支援を得られるプラットフォームであること。例えば僕は支援者としてメリットも考えますが、それ以上に情熱の度合いを何より重視します。FiNANCiEがより多くの人の自己実現を支えるプラットフォームになることを楽しみにしてます!」

出典 https://prtimes.jp

この「FiNANCiE」というサービスは、夢を叶えたい人(ヒーロー)と夢を支援する人(ファン)が出会い、その夢を一緒に叶えていくという新しいサービスになります。企業から個人の時代へと変化している社会は追い風となるのでしょうか?

新時代のSNS「FiNANCiE」

現在のSNSは承認欲求を満たすために発信する人が多いでしょう。しかし、「SNS疲れ」なんて言葉が出るほど疲弊してしまっている人も多いのではないでしょうか?そんな時代だからこそ生まれたサービスが「FiNANCiE」かもしれません。これからの時代は「応援型SNS」が流行するのではないでしょうか?

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